味は伝統では語れない。
畑とどれだけ長く付き合ってきたかで、京つけもののおいしさがきまる。 見てくれや目先の利益ではなく、これからずっとこの土といっしょに生きて行くのだという覚悟が、つけもの作りには必要なのです。 自然は正直です。 こちらが真剣にぶつかっていけば豊かな恵みを与えてくれますが、手を抜いたり心をそらしたら、畑はいうことを聞いてくれません。 そんなことを考えながら、いつのまにか五十年の歳月が過ぎました。
打田漬物商工業株式会社 五十年誌
現会長の言葉より抜粋
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丁稚奉公から創業
現会長の父親が京都は島原で漬物業を開始したのが、昭和十五年。
初代社長は戦前から丁稚奉公として、東山でこの商いに従事していた。第二次世界大戦勃発。
そして終戦と同時に京都へ戻った先代社長は、再び京都で漬物業を営むことになった。
昭和二十一年頃の京都は完全な統制経済で、自由な商売はほとんどできなかった。
今の本社店舗のある場所が当時の本社で、昭和二十二年には錦市場に店を確保して商いを広げていった。
その頃は、錦に店を出すということだけでも大変なことで、当時は現在の年末師走の人以上に連日のように賑わっていたという。
もっとも品物があれば何でも売れた時代のため、値段も二重表示が当たり前。
一枚の値札の裏と、表にいわゆるマル公(統制価格)とヤミ値が書かれていた。当時の打田の従業員は十名ほど。
日本中が、食べることで精一杯の時代でもあった。 -
伊勢たくわんの時代
初代会長が三重県の伊勢出身であった関係で、打田は当時から伊勢とのつながりが強かった。そのころ、漬物と言えば「伊勢のたくわん」のことで、他には考えられないほどであった。
気候風土に恵まれた伊勢を通じて、打田は伊勢たくわんを中心に商いを徐々に拡大展開させていった。
当時を知る職人の話によれば、お客さんのほとんどは店頭でまるのままの伊勢たくわんを荒縄で二〜三本くくり、そのままぶら下げて帰ったという。
普通の家庭でも一時に一貫目(約四キロ)くらいは買って帰ったというから、食生活は今とはずいぶん違っていた。
それしか食べる物がなかったと言ってしまえばそれまでだが、たとえば京都の場合を例にとれば、室町の呉服問屋界隈の賑わいも大きな理由の一つであろう。
当時の呉服店には大勢の丁稚が住みこんでいて、彼らの食事の大部分を伊勢たくわんが担っていた。
衣食住のすべてをお店から支給される彼らにとって、京都の老舗奉公は決して悪い待遇ではなかった。むしろその上に仕事が覚えられて時々は小遣いももらえるものだから。そんな時代の中で打田は、京都の室町や西陣の町とともに変っていった。
もちろん戦前から千枚漬やすぐきもあったが、当時は野菜そのものが露地栽培であったため本当のその季節だけしかとれない。だから、千枚漬が店に並ぶのは師走に入ってから二月くらいまで。
旬の野菜を旬の頃だけ食べられる、いわば大変贅沢な時代でもあった。
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軍隊式に赤はち巻
打田の昔を知っている人は、赤はち巻きに水筒を肩から下げた従業員たちの元気のよい仕事ぶりを思いだすかも知れない。
戦後すぐから社員教育に軍隊スタイルを取り入れた打田では、社員に階級を付けて呼んだ。新入りは「三商」と呼ばれて一番下。当時はほとんど全員が住み込みだったため、朝から寝るまで先輩たちと共同生活。そこで軍隊式の規律が必要だったのだろう。
階級の下の者は先輩よりも早く起きて仕事場の清掃はもちろん今日一日の仕事の段取りをする。週番制度もあって、週番は肩からたすきをかけてみなの監視を引き受けた。まだ艶街が華やかな時代で、映画のほかにこれといった娯楽もない頃だったから、遊びも今と比べれば大変おおらかであった。
こんな具合に社員には非常に厳しい打田だったが、そこで働く社員たちの仕事ぶりはみごとなもので、百キロちかい漬物樽を何百メートルも一人で担いだり、リアカーに漬物樽を山ほど積んで九条山を引いて越えたり。今では信じがたいような力仕事やハードワークを、みなで競うようにしてこなしていた。
自動車がそれほど普及していない時代だった頃の配達は、こうした人たちの情熱によって支えられてきた。
朝、工場から商品を積んで、京都市内にあった十六のお店へ運んでいって売るのが日課で、当然重い漬物を毎日運ばねばならなかった。当時はまだスーパーマーケットがなかったため、ほとんどが製造直販。そんな商売だったから、当時が従業員も一番多かった。
特に三十年代は食べることが難しい時代だったので、就職先選びは、なによりも食事がきちっとできるかどうかが大きなポイントだった。打田は、野菜の仕入れ先の関係で比較的食料事情に恵まれていて、当時の職人たちの問では、「ご飯だけは腹いっぱい食べられた」という印象が強かったという。
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勝手口から玄関口へ
昭和も四十年代になって、少しずつ社会も変わってきた。流通にスーパーか参画し、商品の流れが大きく変わったのもこの頃からだ。
打田も、それまで販売してきたものは伊勢たくわんのように自家消費の商品が中心だった。
そんないわば勝手口の商品が、この頃を境に進物品、つまり玄関口の商品へと変わりはじめた。
これはビニールなどの新しい包装材料の出現が大きな理由ではあるが、同時に消責者嗜好の多様化・高級化も忘れてはならないだろう。
現在、打田で売られている商品のほとんどが、この頃開発されたものである。
それまで荒縄と新聞紙だったものが、ビニール包装になったことが商品づくりに与えた影響は大きい。
三十九年の東京オリンピック、東海道新幹線開通。そして四十五年の大阪万博と、経済は活気づき食生活も加速度的に変わっていった。
直販店はスーパーマーケットの出現で必要性がなくなって縮小。
それに変わって、外商部という部門が、現会長の発案でスタートした。
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徹夜でさばいた贈答品
伊勢たくわん全盛の頃は、商品数が約十数種類。ところが昭和四十五年以降になると、種類はどんどん増え続けて、今ではおよそ八十種類にまで増えた。
そもそも原料となる野菜はほとんど変わらないわけで、加工(調理)方法にバラエティが増えてきたということになる。
同じ材料をつかって、高級な贈答品が作られるようになってきたのは、昭和四十年代に始まり、本格的になったのは五十年過ぎのこと。
進物需要は年々高まり、現在ではそれに見合うスタッフの補充や、システムが完備されているが、スタート当初は新規部門ということで、現会長以外に手を下す余裕もなく、たった一人で二〜三日徹夜で商品の送り出し作業を続けてようやく間に合わせたという。
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漬物は生きている
この春にまた鈴鹿に新しい工場が完成した。
創業当時からなじみ深い場所だけに、会社全体からの期待も大きい。
野菜が呼吸する生き物であるように、樽もまた生きている。
だからこそおいしい漬物が誕生する。
本当は樽も生かしながら使うのが本来だが、今となっては難しい。
そこで、樽以外の部分でこだわって、昔ながらのおいしい漬物を再現しようという努力が続けられてきた。
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こだわり続けた七十年
最近の京つけものは、調理化の方向に進んできた。
いわゆるひとつの料理としてのつけものだ。
その日のメニューや季節、いっしよに食べる人たち、時間など様々な要素にあわせて、いろいろな料理が存在するように、京つけものもまた、TPOにあわせて、趣味嗜好にあわせて個性的なものが求められている。
その中には、昔ながらの伝統的なものも、新しいスタイルとして数えることができる。
たとえば、味にこだわってみる。
あるいは色彩に。
盛り付けやほかの料理とのつけ合わせを考えるのもいい。
つけものが年々高級化、個性化しても、基本はこれまで打田が徹底的にこだわってきた素材にある。
畑から一貫して管理することに、創業以来こだわり続けてきた打田のやり方が、今改めて見直されている。